昭和42年12月01日 月次祭



 あの、信心はいよいよ人間氏子が幸せになっていき、神様が幸せになって下さい、神と氏子とがあいよかけよでいよいよ幸せになっていく道を教えて下さるのが御道の信心だと思うのです。ですから、どうでも私どもが幸せにならなければなりません。もう本気で一つ幸せになろう、と。先日信心研修会で御座いました。久留米の佐田さんが発表しておられます。様にほんとに誉めるじゃないけれども。
 私の主人というのは、もうそりゃ家内が主人に惚れこむのは当たり前ですけれども、もうほんとにですねえ、もう言うておられる事、しておられる事、今日までの言わば生活振りというかね、生きられ方というものが素晴らしい。と、奥さんが言われるくらい、手放しで誉められる位ですから、又私共が見ましても、そんなに立派な方だと思うんです。ほんとにあのなんて言うでしょうかね、実意が溢れておる生活。
 それで親先生の御話を頂けば頂く程思う事は、自分達が何十年の間をです、確かに自分も合楽の親先生の様な、言うなら生き方をして来たと。所が自分には、信心がなかった。成程ある意味合いにおいて、いろんな意味で成功というが、まあほんとに幸せの条件というものは、色々に足ろうとる。両親が健康である。夫婦が仲が良う。子供が出来ん筈の子供が、三人も次々とおかげを頂き。
 しかも三人の子供が親の口から言うてもおかしい位ですけども、まあ出来がいいとこう言う。御商売は順調にいっておると。まあなんとその有難い事に成って来たので御座いますけども。例えばおんなじ生き方をしたんだけれども、親先生は現在まあ、佐田さんの言葉を借りて言うならです、まあ人からほんとに、閻魔神様の様に仰がれて、あれだけのまあ沢山の信奉者から、大事にされなさる生活が生まれた。
 所が自分には唯、家が立派になったとか、健康であるとか。その様々な幸せの条件こそは、揃うて来たけれどもです、そういうおかげは受けれらなかったと言う事になるとです、是はどうでもそれに、信心が伴わなければならないと言う事を、痛感するという意味の事を話されます。一生懸命忠実にに自分の仕事に打ち込んで、しかも商売が繁盛して、自分の健康のおかげを頂いて。
 例えば是を、お百姓さんでいうならば、三反のお百姓さんは六反になり、六反のお百姓さんは、一町何反も二町も作れる様になった。家も立派になった。一生掛って是だけの財産を築いた地位も出来た。名誉も出来た。けれどもです、人間の一番大事な心の上に、幸せを感じると言う事は、是は信心を抜きにしては出来ないんだと、言う事を遅まきながら悟らせて頂いた。
 「お母さん、是からは本当の幸せを頂けれる為に椛目通いをするのだ、合楽通いをするのぞ。信心はさせて頂くものぞ」、と言う事に何時もそこに話が落ち着くのだと。佐田さんがそういう風な事を言われます。そんなら、信心しとるもんが皆んな幸せになるかというと、そうじゃないのです。ここんところを一つ、お互いが本気で信心によって、おかげを頂こうというのではいかんです。
 信心で頂く所のおかげというのは、この調子で行けばもう必ず幸せになれれるという信心なんだ。そういう心なんだこのまま行きゃもう絶対のおかげが受けられる。日々を安心してそこへ向かって進ませて頂く生活。そういう生活をお互いが身に付けて行かなければいけん。だからその為にはならどういう信心をさせて頂いたら良いかと。あの人は一生朝参りを続けらっしゃったというても幸せに継ながってはいないかも知れん。
 そこで思うのです、私共人間の幸せというのはどう言う様な状態の事を幸せというかというと。昨夜私の叔父でもあり、又伯母でもあります椛目の田中の家の丁度年限は違いますけれども、それぞれ丁度式年の年に当たっとりましたから。昨日は親戚の者集まりましてから式年祭をここで奉仕させて頂きました。ほんとにあの真心込めて仕える信心させて頂いておるから、又あれが出来るんだとこう思うのですけれどもですね。
 御霊様がほんとに喜ばれたじゃろとこう思う。御霊の喜びはそのまま神の喜びだ、とも、昨日頂いとる。御霊様が喜んで下さると言う事は、神様の喜びなんだ。その神様の喜びが私共にも反映して来ない筈がない。神様にその事を御報告を申し上げて頂きよりましたら、「馬鹿になりゃヒロ。あほになりゃマス」と云う事を頂きました。「馬鹿になりゃヒロ、あほになりゃマス」と云う事。
 私の叔父が田中増太郎という。おばがヒロといいよります。だからそれをもじって下さったんでしょうねぇ。馬鹿になりゃ増して行く、あほになりゃいよいよ広がって行く、それが福岡の、吉木先生が頂いて居られます様に「馬鹿と阿呆で道を拓け」、とこうおっしゃる。なら「馬鹿と阿呆で道を拓け」と言う事は、どう言う事かと言うとですねえ、「腹を立てない」と云う事。
 不足を言わないと云う事是だけ。是だけのおかげを頂く為に様々な教えがあるのだ。是はねおかげの決定版なんだ。是はもう何時の時代になっても間違う事のない大真理なのだ。こういう状態にこちらがなり得た時に、天地は私共に幸せを恵まなければならない、一つのシステムがあるそういう決まりがある。願わんでもいいわけですだからお互いが信心させて頂いて有難い時には、腹の立つ様な事でも腹立たんけれども。
 心が薄うなっとるともう腹が立つ、イライラする。して不足を思うたり言うたりする。折角のおかげが、育って行きよるのはいいけれども、また元の木阿弥になってしまう。惜しい事だ。信心とはね、そこん所をです、私は極めて行く事である。腹の立たん私になる為に矢張り馬鹿にならにゃいかん。不足を言わんで済む私になる為に、いよいよあほにならにゃいかん。
 昨日県庁それから(  ?  )ヒヨシ先生と二人で、ここの宗教法人の事に付いておいで頂いた。皆さんその事に当たっておられる秋永先生を先頭に五、六人の方達が昨日一日その事の為に御用頂かれた。県庁から見えられた方の御話で御座いました。私にこう言う事言われるんです。「先生、この世の中には善悪というものがあるでしょうか。」私は即座に申しました。「この世に善悪はありません。
 陰陽はありましても善悪はないです。」と私はっきり言うた。矢張りあの宗教関係の事に長年携わっておられる方ですから、まあ一つの悟りの様な物を感じられた様でしたですね。この世の中には善悪はない。あるものは陰陽だけだ。男と女、是は陰陽である。天と地是は陰陽である。陰陽はある。けれども善もなければ悪もないのだ。と言う様な事を私申しましてから、私自分の言うた言葉に是は責任を感じたんですねえ。
 ほんなごと善悪はないだろうかとこう。所が考えて見れば見る程に矢張り、善と思うておる事が悪である場合があり、悪である場合が悪ではなくて、善であったり、いやほんと言うたらなぁんにもないと言う事。その仏教の悟りの様な物でありますね。例えば今、今日も隣組の、隣組というか村内の何か封筒が来てましたよ、助け合い運動というやつ。お互い助け合いましょう。
 はい百円でも二百円でもいいから入れて下さいとこう言われます。果たしてあれで本当の助かりになるだろうか。自分が善を施した事。善をした事になる。けれどもこう言う事は言えますねえ。自分は親切をした。善を施した。そこに自分の心が嬉しい。貰うのじゃなくてあげられると言う事が有難い。こう言う風に善を積んでいきゃ、自分は必ず幸せになれるだろうと、言った様な物が段々是が出来て来る。
 それがおかげになると言う事が言えますですね。けどもその善そのものが必ずしも善じゃないと。例えば物貰いにお金を施します。食べ物を施しますもうその物貰いはですね、もう乞食を三年すりゃ辞められないと言う様に、いよいよ乞食根性だけが強うなってほんとに働こう、真面目に働こうと言った様な気持ちが無くなってしまうとするならそりゃ善じゃないでしょうが。そりゃむしろ悪をこう援助しておる様なもんです。
 成程そこには、難儀な人がある。困っておる人もある。その難儀な人が困った人がです、どうぞほんとの意味においての助かりを頂く様に。私はほんとにその方達の為に、祈らせて頂くという様な生き方に、ならなければほんなこっちゃないと。少しばかりのお金で少しばかりのお餅ぐらいでですね、じゃあこの度の正月だけが越せた所でなんもなりゃしません。その時よかった。 
 その時幾らか貰うてよかったというだけの事。いわゆる焼け石に水をかける様な物。潤うと云う事は全然ない。というて私それを反対する訳ではないけれどもです、善悪と言う事についてですね、何が善やら悪やら分からんでしょうが。善と思うてしておる事が、実を言うたら悪なんだ。悪の様であってもそれが善なんだ。あの人はほんとに不親切な人だ、不親切な人だと例えば言われる様な人でもです。
 神様の目から御覧になるとそれは善かもしれない。けれどもそれも善でもなからなければ悪でもない。又ヒヨシ先生からこんな話を聞かせて頂いた。この頃から吉田首相が元の吉田首相、吉田茂さんが亡くなられました。あちらの吉田さんに付いておられた御婦人の方がですね、四国のフタイワという教会の御信者さんです。あちらの教会の奥さんのお母さんであったそうで御座いますね。
 吉田さんが言うておられた。人間の中にもこういう人間があるだろうかと言うて、言われたそうです言われて言うておられたそうです。人間の中にこういう人間を見たのは初めてだ。こういう人間がほんとにあるじゃろうかと、そのびっくりされる位であった。別にその御観音様のごたる風をされてる訳ではなかろうけどもですねえ。もう言われる事される事が、もう実意の固まりの様な方であっただろうと云う事なんです。
 吉田さんを御世話なさる。その御世話の仕方が違う。内容が違ういわゆる真心いっぱいなのである。人間の中にこういう人間がおるだろうかとこう言う。こういう人間を育てなさった例えば先生という方はどういう方であろうかとこう思われた。それでどうでもあんたに、こういう信心を教えられた先生に会いたいと言う事になってね、フタイワの教会にその先生親先生のおいでを願われた。若先生と御二人でおみえになられた。
 喋喋二時間半に亘って、天地の大恩を説かれたということでございます。吉田さんにお会いするのはね、もうどんなに、普通は会われません。御話も出来ません。でも、どうでもという人だけは十五分間に制限されておるそうです。だから十五分が来ると「もう時間で御座います。」もう最後にはですね、吉田さんがその「黙れえ」と言うてその秘書の方を怒られたそうです。
 「こういう素晴らしい有難い話を頂いておるのに何を言うか」とまあ言う訳でございましょう。二時間半、その天地の大恩を頂かれたと言う事である。帰りにはですね、もう天皇陛下と皇太子がお見えになった時だけしかお開けにならないという、正門の門を開けてお送りになったと云う事です。しかも有難い事ですねえ皆さん、でもほんとに実意丁寧な信心をされて、ほんとにこの人は人間じゃろうかと思われる様な。
 私共にならせて頂く事なんだ。「信心とは我心が神に向こうて行くのを信心と言うのじゃ」言われる事が、される事がほんとに生神様というならば、こんな人じゃろうかと、思われる様な有り方になられる。こういう先生、こういう信心をです、教えられた先生という方は、どういう素晴らしい人であろうかと、吉田さんが好奇心を感じられる位である。是非あんたのその親先生という人に会いたいと言われた。
 しかも、十五分しか他の方と御話をなさらないという、吉田さんが二時間半に亘って、それも天地の大恩を聞かれたと、言う事で御座います。吉田さんの心の中にです、御話を頂かれれば頂かれる程、成程自分は何十年間という間、お国に尽くす所の心と言う物は一つも変りはなかった。お国の為にも働かれた。私自分の権力なら権力と言う物も、ある意味合いにおいては欲しいままにされた。
 ワンマン吉田と言われる位な方でしたから。是が良いと云う事だったら、誰が何と言うても、それを実行しなければ聞かないという人であった。いうなら、思う事だけは、言わば充分にこの世になされた方であった。所が晩年になられるにしたがってです、そういう神様の様な人に付き添われてです、何かを感じられた。俺はこのままあの世に行くとするならばもしあの世と言う物があるとするならば、
 今までの何十年間の生き方ではいけなかったぞと、いう寂しさが心の中に生まれて来たのです。そして、聞いた事もなかったお道の信心、その天地の大恩をです、しかも二時間半にも亘って、それを順々と説かれ、それを順々と聞かれた。そう言う事を言わば死ぬ際になってから、分からせて頂いたと云う事はです、どんなにか有難いと思われた事であろうか。天地に対する所の御詫びもなさった事であろう。
 天地に対する所の、御礼を申された事であろう。そして是があの世への御土産であると言う風に思われたであろう。私はそれを聞かせて頂いてからですねぇ、ほんとにおかげを頂かにゃいけません。皆さんでもそういうおかげを頂かれてから、ほんとにこりゃ信者さん、素晴らしい、誰が見ても素晴らしい。こういう素晴らしい人を育てた、合楽の先生ちゅう人はどげな先生やろうか、一遍合うて見たいと言う様なですね。
 おかげを皆さんが一人一人が頂かれたらです、大した事になるだろうと私は思うのです。皆さん本当にそういうおかげを頂かにゃいけんです、そういうあり方にならせて頂くと言う事が、今日私が御話しておる所の幸せの根本なんだ。幸せの根本というのは、不足を思わんで済む、言わんで済む、腹を立てんで済むと言う事なんです。そこで私は思うのですけれどもです。
 お道の信心をさせて頂いたら、何と言うても、天地の大恩を分からにゃいかんと言う事。天地の御恩徳を、知らなければいけないと云う事。天地の道理を、知らなければいけないと言う事。そして、その天地の道理に基づいた所の生き方。天地の大恩を分からせて頂く所から。私今日もお風呂の中で丁度成さんと高橋さんが一緒でした。私はもう分からん。天地の大恩を二時間半も、順々として説かれたというフタイワの先生は。
 どう言う事を説かれたのであろうか。吉田さんもそれをほんとにいちいち最もだ最もだとこう聞かせるものは何だったであろうか。甘木の初代が一生かかって天地の大恩を説き抜かれたが、大体どう言う事を言うて天地の大恩を説かれたのであろうか。天地の御徳と言う物をどう言う風にして説かれたのであろうか。御自身が初めて小倉の教会にお参りになった時に、大地の御恩徳と云う事について御話を頂かれた。
 天地の大恩を聞かれた。天の恩は知っておったけれども、地の恩は知らなかった。小倉の桂先生は、安武先生にどの様に言うて天地の大恩を説かれたであろうか。それこそ、足元から鳥が飛び立つ様な思いであったと、その時の事を述懐しておられますね。初めて聞く所の大地の御恩徳、それ(?)足元から鳥がそれこそ飛び立つ様な感激であった、感動であった、もうびっくりする程のものであった。
 はあ何という素晴らしい神様であろうか。今まで沢山の宗教が天の恩は説いて来たけれども、地の恩を説いた信心は宗教はなかった。初めて聞く所の大地の御恩徳を言われるが、そんなら大地の御恩をどう言う風にして説かれたのであろうかと私は思う。それは理屈を言ゃあ聞いても来た読んでも来た。水ひとしずくでも米一粒でも神様のお恵みであり、御恩徳であると思うとが、神様の御徳のそれが現れである。
 けれどもです、それこそ、足元から足が、鳥が飛び立つ様に思いで頂けれると言う事は、是はどう言う様な事であろうかと。私は天地の大恩とか御恩徳とか説き様がないと思う。説明するだけなら出来る。この水ひとしずくでも人間が創れるもんじゃなかばい。是を創りなさったのは神様ばいとこう言う事を言えるけれども、それを聞いた皆さんがはあとほんにそうであったと。
 このひとしずくの水にほんとに、足元から鳥が飛び立つ様な思いで、はぁそうであったと、分かると言う事は、どう言う事であろうかと私は思うた。フタイワの親先生という方が、吉田さんに二時間半も、天地の大恩を説かれたというが、どんなに用件を言うて来ても言うて来ても、それこそ黙れと言うてそれを退けて、そして説かれる所の天地の大恩を聞かれたと言う事はどう云う事であったであろうか。
 私は、ここの所に不審を感じる。理屈で説明をする。そんなもので私共が有難くなれるものでもなからなければ、それこそ鳥が足元から飛び立つ様な思いで、びっくりする程な思いで、是に頂かせて頂くと言う事は出来ない。結局は私は思うのに、御徳だと思うた。桂先生の御徳がです、安武先生をしてです、ああいう感動を呼び起こさせたのだ。フタイワ教会の親先生という御方がです。
 言うなら二時間半も順々として説かれ聞かせえられたのである。それは話ではないそのフタイワの先生の持っておられる御徳なのだ。御徳だその御徳にお互いが触れさせて頂く時にです、訳が分からんながらも有難くなって来るのである。今日私、丁度午後からで御座いました。二時頃でしょうか。ある方がここへ三、四人御参りをしに来た。それで私そこにおったんですが。
 表まで送っておりましたら、向こうの方からハイヤーが入って来るんです。見知らぬ車が入って来るなあと思いよった。窓からもう足の悪い人がそのこう、伴のうてからこっちへ来よる。そしたら、なんとそれは高松さん達夫婦であった。この頃ここであの盲くらさんと、ちんばさんがここで結婚式をされました。その方たち日曜になると、夫婦でそれこそ手に手を取りおうてからお参りになっておる。
 今日も休みと言う訳ではなかったんですけれども、松崎の方で盲くらさんばっかりの会合があった。それでそれを途中までで、こちらへ二人お参りをして来たとこう言われるのである。すぐその後ろから鳥栖の上野さんが御参りをして来ておった。上野勝美さん。「ほんとに先生私は、」上野さんの話。「この前も丁度お参りした時に、高松さん達が夫婦でお参りになっておられました。
 私が後ろからこう、それこそ手に手を取りおうてから、お参りしておられるのを見せて頂いたら、もう何か知らんけれども、有難うして有難うしてですね、ほんとに神様の御神縁の不思議な事。ここで結婚式をされたというその縁でですね、そして二人の者が手に手を取りおうてから、休みの日を楽しみに御参りをして来られる様になられた。その事を思うたら、もう泣からにゃおられない。」
 もう目が泣きはらしたごとしてから、御祈念してから私のとこにみえます。そしてその今朝からの御理解を、何回も聞かれてから有難がっておられるのです。だから有難いと言う物はですね、もうその何を見て有難いと感じるやら、何を聞いて有難いと感じるやら分からない。その有難いというのが、なら朝の御理解を二回も三回も、続けて聞かなければおられない様な物を、上野さんの心の中に与えておる。
 結局、信心というのは、ほんとに有難うならせて頂く稽古なのである。その有難いからこそ、不足も出ないのである。有難いからこそ腹の立つ様な事を言われても、腹が立たんのである。そこで私は思うのですけれども、その天地の大恩をですねえ天地の御恩徳をです、私共が本気で一つ分からせて頂こうという姿勢。「我情我欲を離れて真の大道をひらき見よ、わが身は神徳の中に生かされてある」と。
 本気で我情を取らせて貰う。自分の思いと言う物を取らせて貰う稽古。本気で自分の我欲というものを捨てさせて貰うていく所に「わが身は神徳の中に生かされてある」とこうおっしゃる。そういう神徳をそういう心で、キャッチしていくのである。天地の御恩徳がほんとに、自分のものになって来る所にです、もう目が覚めたら有難うなるじゃろう。ある先生が御話になられた。目が覚めたって事は大変有難い事ばい。
 もう目が覚めんならあんた明日火葬場行きばい。もう言われれば、本当に(?)なんです。だから、目が覚めた。はぁ今日はまだ火葬場行きせんでよかと思うたら、有難うならんといかんのだけれども、実際は理屈はそうだけれども、有難くなれないでしょうが。目が覚めない、永眠である。もうあくる日は火葬場行きである。ほんとに是は、有難い事なんですけれども、それが有難いものとして心に湧いて来なかったら。
 是はもうなぁんにもならん。今日私はそこの所を皆さんに聞いて頂いておる訳である。どうすればほんとに目が覚めたら有難くなるのか。どうすればひとしずくの水にでも、御礼が言える様になるのか。どうすれば一粒の御米にでも有難いと御礼が言えれる様になるか。それこそ木の切り株に腰を下ろしても立つ時には、礼を言う様な心持ちと言う物に、心持ちなれよと仰るが。
 そういう心持ちにはどうしたならば、なれるのかと。そこで、ある場合は稽古ですから、心に実感はなくても、何でもかんでも拝みなさいとこう言われる。下駄を履いているなら下駄を拝みなさい。自動車に乗っているなら自動車を拝みなさい。御食物を頂く時には御食物をしっかり拝みなさい、寝る時には、枕でも布団でも拝まにゃいかん。もう心になくても拝まにゃならん。
 たまにはそれでもです、嘘から出た真っちいうて、ほんなごて有難くなる事がある。そういう事があるですねぇ。拝む事が有難うなって来る。だからなんでもかんでも拝まして頂くと、いう矢張り形の上の稽古と同時にです、そう拝まなければおられない心を、ひとつ育てて行こうというのである。目が覚めたらほんとに有難いという心が湧いて来る様な心とは、どう言う様な心か。
 その心を頂く為にはどういう信心させて頂いたらよいかと、言う事に私共が焦点をおいての信心の稽古にならなければいけない。そこには難しいですけれど「我情我欲を離れてみよ」とこう仰る。「わが身は神徳の中に生かされておることが分かる」とこういう。我情我欲離れんでも、神徳の中に生かされてある事が、聞けば分かるんだけれども心の底からそれを御神徳の中に、生かされてあると言う事が分からない。
 今日私は、親教会の御月次祭で御座いましたから、ここから何時も御参りさせて貰ました。関さんが何時も御供されます。関さんと久留米の佐田さんが今日は二人御供でした。娘さんのヒロコさんが運転した自動車で御参りをさせて貰ました。ところがです(?)の中に御参りしとった皆んなの四、五人の方達からその送られて、私共の自動車がいよいよその道路に出ようとした途端になんかガツッとこう。
 私うっかりしてたからそう、ガツッというた事感じた。別にそのショックがある訳じゃなかった。 ところがですねえ、皆さんあそこを出る時には、ほんとよくよく用心していかにゃいかんですねえ。こう門のこうしたつがあるもんじゃからですねえ、大きなトラックが追い越しをやってる。二台並んで来よった訳なんです。だからこちらの自動車がちょっと出た途端にここパアーンとこうかすって行った。
 もう一秒間私共が早く出てから、もう少し前に出とったらそれこそ、大ケガ出来たじゃろかと思うんです。それでもう前の方はぐちゃぐちゃになりました。ドアもあかん様になりました。それでも、まあ自動車は動きますからそのまま御参りさせて頂いたんです。もう向こうのトラックの運転手さんが、降りて来てから全面的に自分が悪いのだから、弁償するからと云う事に話が決まったらしいんですけれどもです。
 そう言う様な事で御参りさせて頂く車の中で、セキさんが言われる事なんです。ヒロコさんに横に言うておられるとじゃん。「ほうらみてんなさい。あんたが出掛けに御神様オゴで来じゃったろうがの。拝んで来とったらおかげ頂いた。拝んで来とったらおかげ頂いたけれども、あんたが拝んで来じゃったから。お家にお祭りしてある、神様を拝んでこなかったというのである。
 それだけではない、あれやら是やら色々と御気付けを頂かなければならない事。それこそ運転手のヒロコさんが、一番胸に応えたじゃろうと言った様な事があっておった。御気付けを頂いた。そう言う様にですねえ、私共がねそう言う様な頂き方なんです。形の上においてもですね。ほんとにちょっと拝んで行きゃ、困難を逃れておったのに。形の上でもそうなんだ。ですから心の上においても同じ事が言える。
 いわゆる実意丁寧を、尽くさなければいけない。私もそれを感じましたですねえ。実意丁寧を尽くさなきゃいけません。そこからです、なんとはなしに有り難くなってくるものがある。同時に中身から有り難くなって来るというのは、どこまでも本気で真に有り難くならせて頂くという、ならせて頂こうという信心の姿勢というものが、どうすれば有り難うならせて頂くか。
 ほんとに天地の大恩を天地の大徳を、天地の道理を分からせて頂いて、その道理にそうた生き方を、本気でさせて貰おうという願いを持って、おかげを頂かねばいけない。天地の大恩が分かりゃ、確かに天地の大恩がほんとに心に分かれば、目が覚めれば確かに有り難い、おかげで今日も生きておったという喜びが、もう目が覚めたと同時に、頂けなければならない筈なんだ。
 それが頂けんのは私共の心の中に、まあだ我情我欲が一杯だからなんだ。どうでも一つ皆さんおかげを頂かれてですね、人間のほんとの幸せというものが、私共が腹を立てんで済む私達。不足を言わんですむ私達。しかもそれは、どういう中にあっても、腹を立てんで済む、不足を言わんで済むおかげを頂きたい、為にはどうでも天地の大恩を、天地の大徳を分からにゃいかん。
 それには、話を聞けばすぐ分かる事だけれども、それだけではいかん。矢張り我情我欲を離していく所の、稽古を本気でさせて頂いて、おかげをこうむって行く時に、神様がふっと自分の心の中に何か知らんけども、有難うして有難うして堪らん様なものを与えて下さる。そういう有難いと言う様なものがです。何時でも何処ででも感じられる、頂かれる所のおかげ。
 私は、お風呂の中でもうほんとに、何べん金光様有難う御座います言うか分からん。いっぺん言えばよかと言う様なもんじゃない。言わなければおられんのである。お便所に行っても何べん金光様有難う御座いますを言うか分からん。言わにゃおられんのである。その言わにゃおられんものがです、私は助かっておるとこう思うんですよ。有難う御座いますと言えれると云う事が助かっておる事。
 だから風呂に入っておると言う事は、だぁれでもおんなじ事。けれども、その有難う思うておると言う事は、五思うておる人もありゃ、十思うておる人もある、千も万も有難いと思うておる人もあるのです。そこに内容の相違を私共感じます。今朝から今日ここに参っておられます、村内の飯田さんという方が不思議に、不健康の中から健康のおかげを頂いて、もうぼちぼち御用でも出来る様になられた。
 それっきり、おかげを頂いてからまあ、御参りを止めておられた。今朝の御祈念に参って見えた。こりゃ又私御無礼しとるから、又こりゃそのう悪うなりましたとこう言う。神様はね、その病気さんを治してやりたいというのが、神様の願いじゃない事を知らにゃいけんです。御自分なもうこの病気を治して貰ゃあ、もう後は参らんでもいいと(?)いうてる。所が神様の願いはです。
 あんたが健康になると云う事だけが、神様の願いじゃないと言う事。あんたが本当の幸せになると言う事を、神様が願うておられると云う事。只病気はその仲を取り持つ役の事なんだ。その病気によって御神縁を頂いたというだけの事である。だから健康になったら、健康になったで、それこそ三べんでも五へんでも、近いから御参りさして貰わなければおられないものをです、頂いて行く事なんです。
 だからそこん所を神様は求め給うのであると言う事をですね、お互いが知らなきゃならん。いわばそこの所を四神様はですね、「この神様は病気治しじゃない、災難除けの神じゃない」と仰る。 かというて、なら災難も除けられれば、病気も治して頂けるんだけれども、神様の願いというのは病気を治す事ではない、災難を除けさせる事だけではないと言う事。神様の願いと言う事は私共が本当に助かると言う事。
 私共が日々です、不平もなからなければ不足もない、有難たぁいという信心生活が出来ると言う事。それが私共が、助かる事であり、そういう助かりを神様が願っておられるのであり、神様もまたそういう助かりを見て、御自身も助かられるというのである。そういう助かりを求めての信心なんだ。ですから、ここの所のですね、頭の切り替えをしませんと、何時までも病気をしました時だけしか参らない。
 先日からも矢張り(?)の(?)がありました。もうここの家は意つも御米が出来そこなう。今年も出来損のうた。もう様出来とるけれども、出来損のうた。出来とるけれども出来損のうた。だあら何時もそのなんですか。拒絶するとそのトウバイ?になる、何時も。もう今年だんいっちょう( ? )らんと御願いにみえたんです。それで昨日御礼に出てみえました。おかげでとう?に入ったという。
 だから、神様はそういうおかげも下さるんです。けれども、それが神様の願いじゃないと言う事。そこで御道の信心は、神様の願いと私共の願いが、一つになる様な願いが立てられる様な、信心にならなければならないと言う事。そういう信心を目指さして貰うと言う事が、神様の喜びであると言う事。昨日、福岡から見えられた県庁の方がです、秋永先生やら高橋さん達に、一つあなた達に聞きたい事があるちいう。
 「何ですか。」「ここの御造営に二年掛ったちいう。あなた方はほとんど毎日の様にこっちへ出て来られたという。あなた方だけではない、沢山の御信者さん方がそうであったと、言う事で御座いますけれども、大体生活の方はどげんしよりなさっですか」ち言うてから。それが大変な疑問だったという。よっぽど沢山お金を持っておられるじゃろう。よっぽど暇があるじゃろう。あなたは何をしよりなさるですか。
 私は寿司屋をしよります。私は京染めと呉服屋をしよりますという話。んならそのあなたおんなさらん時はどげんなるですか。いわゆる今度の高橋さんとまで、なら秋永先生の場合でもそうです。神様の願いというもの。神様の願いが成就する事の為に、自分とこの信心もこの中に没入してしもうておる。神様の願いの為に自分達が動いておる。その間の生活はどげな風でしたか。生活がそりゃやっぱり楽じゃございません。
 やっぱりおるもんがおりませんから。けれどもです二年間経ちました。言わばこの御造営がなりました。時には言うなら私の方の御造営もなっておると言う事。今度はもうほとんど新築同様に見事に御店が出来ました。御神様の部屋もきちっと今度だからさっき言うておりました十二日には、そういう秋永先生個人としてはそういう新しいお家が出来たと言う事の御礼の報告、それからあちらの支部の方達としては。
 秋の御大祭を仕えるという様な気持ち、御広前が立派になったという、御礼の御祭りを、まあ言わば合同でなさる様な感じのお祭りが、この十二日に御座います。高橋さんも言うておられます。今度五階建てになります、寿司屋が新天町でですね、古屋さんの設計の元に、出来る計画が出来て、もうぼちぼちその事が進められております。高柴さんもそうです。それこそ毎日二年間御用さして頂きましたけれども。
 今までは借家、借地であった。それがおかげを頂いて、家も土地も買わせて頂くと言う程のおかげになって来た。これをね初めお母さんが聞いた時には、もうお父さんどうすんの、それはその(?)も(?)でるやでらん様な状態だった、話だった。お金もなかでどうするかと言う事であった。行く所がないが、どうするか。さすがお父さんですね、もうこげな有難いおかげはなかじゃないか。
 どうでんこうでん買うちくれと言う事は、神様がどうでんこうでん、与え様と言いなさる事じゃないじゃないかと、いう意味の事をお母さんに言うた。お母さんが「はぁ、そうじゃったの」と言うて安心出来たと。それからこっちの事は、もうほんとにそれはもう、それこそかつかつながらもです、お繰り合わせを頂きましてから、買い取る事が出来る、話合いが出来ました。
 どうしたならば十年前に無くした物も、無くしてしまって、もうおる所もなくなった高柴さん達が、ようやくここでおかげを頂いて是から昇ろうかというて、まだ金もそれだけの蓄えがある訳ではないのだけれどもです。神様がどうでもこうでもそれを、与え様となさっておられる。だから子供達も又今度建て増しを致しますから、福岡におった子供達が帰って来て六日、田主丸でおかげ頂ける訳になった訳なんですね。
 だから、子供達も是からは近くなったから、一生懸命信心の稽古が出来ると言うて、喜んでおります。様にそこにはですねぇ、もうほんとにあの神様の願いと、私共の願いが一つになった願いの信心にならせて頂いたらですね、氏子の事の方は神様が見て下さるんですよ。是は間違いなく。そういうお互いが信心をさして頂く所からです、いよいよ有難うならせて頂く事も出来るとこう思うのですよ。
 信心は偉くなる為でもなからなければ、賢くなる為でもない、唯有難くならして頂く為に、その有難くならして頂く為に、天地の大恩を本気で是で分からせて貰おう。天地の道理を、ほんとに自分の心で頂かせて頂こう。為には、我情を外す稽古を本気でせにゃならん、我欲を取る稽古を、本気でさして貰わなければならない。是が神様の御用であるならば、神様が喜んで下さると言う事であるならば。
 一年二年自分の仕事は例えば、投げ打ってからでも、その願いに沿うて行こうと言う様な、信心が必要である。久留米の野口さんが三、四日前みえてからです、もう今度の御本部参拝に私の名前が連なっていない書いてない、御参り出来んと言う事がどんなに考えても情けのうして、情けのうして堪らない。そこで発心して、是はもうお金はなかったちゃあ、どうでんこうでん御参りしようとこう思うた。
 私はですね御本部参拝でも、その位の願いがなからにゃいかんと思うですよ。お金がなかけんで行かんとそしたら子供達がです、あれがおかげ頂いてくれ是がおかげ頂いてくれと言うてそのまあ、旅費の工面をしてくれたとこう言う訳である。御参りが出来る様になったとこう言う訳なんです。ですから御参りが出来ない事がもう情けのうして堪らん位に、そわにゃあいかんです。
 神様の御用にほんに、はぁ皆さんがああして、一生懸命御用しよりなさるが、自分だん参るばーっかり何もでけん。何もでけんと言う事が情けのうして、堪らんちゅうごとならにゃいかんです。そして、どうか神様の喜んで頂く様な、御用に使うて頂きたい使うて頂きたい、お役に立ちたいお役に立ちたいと、言う様な願いにならなければいかんです。自分な病人じゃけん。
 治りゃよかっちゃけん、自分は是ば一つ貰やよかっちゃけんと言う様な事であっては。是は一生掛って信心をさせて頂いてもです、ほんとのおかげにはならないと言う事。そして、本当のおかげになって行く、為に本当の一つ信心を打ち込ませて貰うていよいよ有難うならせて頂く稽古をさして貰わなきゃならんと思いますね。さっきマイクで話があっておりましたようで御座いますけれども。
 この三日は親教会の御大祭で御座います。どうぞ沢山御参りをさせて頂きます様に、どうぞ案内がありますから、それを全部皆さんに配って下さい。そして今度久保山先生が今、留守で御座いますから、迷惑でもその原さんのとこにお願いしたいと思います。どうぞ原さんよろしくお願い致します。あなたの所に。皆さん原さんの所に寄せて頂いてですね、あそこから揃うて御参りさせて頂きたいと思います。
   どうぞよろしゅう御願い致します。